宿を出てバスターミナルへ向かう途中、墓地があったので、寝ぼけながらなんの気無しに眺めながら歩いていた。
亡くなった年が彫られている。ゾッとした。みんな1993年なのだ。生まれた年は違うのに、亡くなった年は揃って1993年。
なんだかとても虚しい。悲しくなってきた。
(このまま~どこか遠く~連れてって~くれないか~♪)
そう、THE HIGH-LOWSの日曜日よりの使者。この曲の出だしが頭の中に流れてきたのと同時に涙が流れてきた。情緒不安定な金曜日の朝。
昼過ぎには首都のサラエボに到着。サラエボ事件、サラエボ包囲、失礼だけど、とにかく悪いイメージしかない町。
なぜかドミトリーより安い3つベッドがある個室に荷物を置き街へ。
「人道に対する罪と虐殺に関する博物館」という名前でGoogleMapに載るけったいな博物館へ向かう。
ここはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の博物館。名前の通りけったいな展示品の数々。
民族浄化に発展した紛争は、他民族に対する各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、家屋への侵入・略奪・破壊、資産の強制接収、暴行・拷問・強姦・殺人によって、その地域から退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に他民族を地域から取り除くといった行為が行われていた。(参考:Wikipedia)
ビデオ上映コーナーがあったので座って見てみることにした。紛争当時の映像。当時の生活の様子が映し出されている。
水やパンを街で手に入れるしかないが、街には銃弾が飛び交っている。
道路脇にコンテナを積み、防弾の壁を作っているが、その切れ目を通るときは全力ダッシュで駆け抜けている。お年寄りは走るスピードが遅いので見ていてハラハラする。
その瞬間、一人が撃たれて倒れた。そして亡くなった。
別の場面では数十人がロケット弾で亡くなった。遺体が道端にゴロゴロと横たわっている。頭が潰れている人までいる。
遺体をトラックに乗せて運んでいく。こんなに簡単に人は亡くなってしまうんだ。
映像の生々しさに目を背けたくなるが、できるだけ知りたくて最後まで見続けた。
廃墟のようになった街で、夜な夜な楽器を演奏し、映画を観て、踊る人々。電気が断たれた街で、なんとか元気を出そうと頑張っている。
ロウソク1本の灯の下、3人の分娩が行われた。毎日多くの人が亡くなる中で、新しい命が生まれている。
そして生まれてまだ3年も経たないような小さな子供が撃たれて亡くなっていく。
サラエボは周囲を山で囲まれている。その山の上からサラエボは包囲された。そして街に住む人を見境なく攻撃し、多くの人が亡くなった。
悲惨すぎる。1992年から1995年の事だよ。最近の話じゃないか。日本もバブルがはじけた後の不況、地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災で暗い空気が漂っていた時期だろう。
ノストラダムスの世紀末の世界の終わりの予言を信じてしまうくらいには世界は暗かったのかもしれない。
暗い気持ちのまま宿へ戻る。途中、スーパーで夕飯を買って帰った。なぜかホールケーキが500円くらいに値引きされていたので買って帰った。
こんな量のケーキをどうするつもりだろう。夢中でケーキを食べる。なんだか虚しい。
せんまさお
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