2012年夏。介護業界を志していた僕は、就職活動の一環として、とある老人福祉施設を訪れていました。(結局メーカーに就職しました)
施設を紹介してくださるということで、建物の中をぐるっと見学することになりました。
職員の方から施設の説明を受けていたとき、とある入所者のおばあちゃんが僕に声をかけてきました。
「あなた、京都へ行ったことがある?」
そのころ僕は京都の大学(京都大学ではない)へ通っていたため、その旨を伝えたところ、大層よろこんでくださりました。
その方は続けました。
「わたしはねぇ、歩くのが大好きで色んなところを歩いてきたの。福岡にも歩いて行ったし、アメリカにも。月にだって歩いて行ってきたのよ。昔は足腰が強くて、どこへでも歩いて行けたわ。あなたは若くて足もいいんだから、色んなところを歩いて見てきなさい。」
なんだか元気をいただきました。
実際には歩いては行けないところも多いですが、まだまだ歩けるんだから、この人生、この足で色んなところを歩いて見てこようと思いました。
当たり前のように毎日歩いていますが、僕は昔、普通に歩くことができなくなった時期があります。
遡ること18年前。小学生だった僕に向かって母は言いました。
「ボーリング大会に出るから、あんたも練習に付き合って」
それから毎晩のように、ボーリング大会に向けた特訓に付き合うことになりました。
順調にスコアを伸ばす母。
調子が良い日は200オーバーも見られるようになってきていました。
僕もメキメキと上達していました。毎日何ゲームも遊ぶのですから当然です。
そしてボールを投げようとしたその時。猛烈な痛みとともに僕の膝の半月板(関節の動きを支えるクッション的なやつ)にヒビが入りました。
全身から嫌な汗が噴き出て、僕はまともに立つことすら困難になりました。
投球フォームが変だったからでしょうか。それとも成長期で関節が不安定だったからでしょうか。
それからの4年間、僕は膝に爆弾を抱えたまま、なんとか過ごしていました。
半月板にヒビが入ると、日常生活に不安が付きまとうことになります。
というのも、四六時中痛みがつきまとう訳ではなく、「ロッキング」といって、突然膝が動かなくなり、激しい痛みが生じるような症状が稀にでます。稀と言っても、僕の場合は、ひどい時は一日に何度もロッキングになっていました。
中学校に入学してからは、ソフトテニス部に入っていたのですが、練習や試合の時にロッキングになると、実質もうそれ以上続けることが困難で、非常に悔しい気持ちでした。
外からではあからさまな異常は見られません。なので、外から見ると、人と同じようなパフォーマンスで動けない人にしか見えない訳です。この状況を分かって欲しいのに、誰にも分かってもらえないことが辛く、こんな足ならなくなった方がいいや、と当時は思っていたくらいです。右ひざに無性に腹が立ち、自分で膝を殴ったことすらありました。
右足を庇って4年も過ごしていると、左右の足で筋肉の発達に差が生じ、明らかに右足の方が細くなっていました。プールの授業で友達にそれを指摘されて、自分でも初めて気づきました。
そうこうしているうちに中学3年生の2月、巷ではフィギュアスケートがブームになっていました。
安藤美姫選手。彼女の華麗な3回転ジャンプに世間が魅了されていた時期です。僕もその一人でした。
僕は3年A組だったのだが、C組の教室まで遊びにいっていた僕は「今なら3回転ジャンプができる気がする」と思い、教室の後ろで勢いよくジャンプしました。
案の定失敗した訳ですが、着地がまずかったようで、半月板を損傷していた右足から、変な体制で着地してしまったのです。
着地と同時に「バキバキッ」という音がし、同時に右膝の半月板は更に激しく損傷したのです。
そこから約2週間。僕は歩くことができなくなっていました。
その後なんとか痛みは引いたものの、ジャンプや走ることはできなくなっていました。
病院をいくつか回りましたが、手術以外に方法はないとのこと。
手術しても治るか分からないらしく、感染症のリスクもあるとかで僕は躊躇っていました。
そしてある日、母がとある所へ連れて行ってくれました。
母の同僚の妹の旦那さんのお兄さんが院長を務める整骨院です。
ちなみに母の同僚の妹の旦那さんは卵屋さんです。つまり卵屋さんのお兄さんが院長を務める整骨院です。逆に言えば整骨院の院長の弟は卵屋さんです。
院長が僕の膝に手を当てて一言。
「半月板か。よっしゃ俺が治してやる。安心しろ。」
どこの病院でも曖昧なことしか言われなかった中、この一言が涙が出るくらい嬉しかったことを覚えています。
しかも、病院ではレントゲンやMRIで検査しなければ分からなかった半月板の損傷を、手を当てただけで見抜いたのです。
その日から治療が始まり、週5日のペースで東洋医学的な謎の軟膏や電気治療、超音波治療を受け続けました。
その甲斐あってか、約1年後、僕の足はほとんど治ったと言ってもいい状態になっていました。正確には、一度損傷した半月板が治ることは医学的にありませんが、ロッキングがほとんど解消されていたのです。
ある日の放課後、「今ならジャンプできるかもしれない」と思い、右足だけでジャンプ(けんけんのイメージ)したところ、なんとジャンプできたのです。今までは絶対に不可能だったことです。
そして僕は嬉しくなって走ってみました。
長らく経験していなかった全力疾走。
嬉しくて嬉しくて校内を走り回ったことを覚えています。(筋肉量が左右で違いすぎて走り辛かったですが)
50m走のタイムは小学生の時の膝を悪くする前は7秒9。膝を壊して以降は8秒6。膝が治ってから最初に計った時で7秒2。これでも遅いですが、走っているときの感覚がまるで違います。右足で地面を踏み込む感覚が気持ちいいのです。
という訳で、今では重いバックパックを背負って世界中を歩き回れるほど回復していますが、あの院長に出会ってなかったらと想像すると恐ろしいです。
多くの方は当たり前のように歩いていると思いますが、歩くという行為は割と簡単にできなくなる可能性があります。
運動中のケガ、老化、それ以外にも、自分に非がない事故でだって歩けなくなり得ます。
あのときの、月へ行ったおばあちゃんの仰るように、歩ける内に行きたいところへ行っておくべきだと今改めて思います。
僕は年を取って歩けなくなったら若者に自慢してやろうと思います。
「俺は世界中歩いてきたんだぞ」と。
せんまさお
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