最後まで宿のスタッフはお辞儀で見送ってくれた。ありがとう。
宿の近くのマルシュルートカ乗り場で国境までの便が出ているようだ。待っていると、マルシュルートカではなく、路線バスが来た。
行き先は確かに国境の街になっている。いくらですか、と聞いたら、電子マネーで払うらしい。
ドライバーがわざわざチャージ機まで連れて行ってくれたが、残念ながら故障していた。
現金で払えませんか、と聞くと、それは無理だと言う。
それならしょうがないとバスを去ろうとしたら、いいから乗れとジェスチャーしている。
現金でも許してくれたのかと思い乗る。30分ほどで国境へ着いた。
ドライバーへ現金を渡そうとすると、お金はいいと言う。最後までありがとう。嬉しい。本当にジョージアが大好きだ。
ジョージアの出国審査官はまるで流れ作業かのようにポンポンとスタンプを押して人を通していく。出る分にはユルユルだ。いや、入る時もそうだったかも。
次に向かったのはトルコの入国審査。次の国はトルコだ。
国境には免税品売り場があった。人が混んでいたので寄るのはやめた。
すると、女性に声をかけられた。
「これを持って国境を越えて」
見てみるとタバコが袋に入っている。どうやら、免税範囲分まで通行者に持たせて、トルコに入国したら仲間に渡すようだ。
これ、大丈夫そうに思えて、実は普通に脱税行為に当てはまるので拒否した。しかも人から頼まれたものを持って国境を越えるなんてリスクしかない。もし薬物なんか入ってたらおしまいだ。
何人ものオファーを断り、トルコの入国審査。過去の渡航国をチェックしているようで、多分興味本位でしかなさそうなかんじ。
ようやく満足したのか、スタンプを豪快に押した。
しかし彼が押したのはビザのページではなく、追記のページ。これで大丈夫なのかは出国するまで分からないけど、まあいいかと思って特に何も言わないでおいた。
国境から近くの街まで丁度ミニバスが出ていたので乗り込む。事前にジョージアでトルコリラに両替していて助かった。辺りには両替屋もATMも見当たらない。
街に着くと、すぐにバスターミナルへ向かった。
しかひバスターミナルが見当たらない。重い荷物でヒーヒー言っていると、路駐しているバスを発見。
ドライバーにバスターミナルの場所を聞くと、わざわざ案内してくれた。
カルスという街へ行くつもりだと話すと、クルディスタン、クルディスタンと言っている。ああそうか、カルスはクルディスタンなのか。
クルディスタンはトルコ、イラン、イラク、シリアにまたがる地域のことで、クルド人が住んでいる。
失礼な話、僕はクルド人は怖い人達なんだと思っていた。しかし、イランで会ったイラン国籍のクルド人サーディーも、イランとアルメニアの国境で会ったイラク国籍の3人のクルド人達も、もうそれはそれはとんでもなく優しかったもんだから、自分の勘違いが恥ずかしい。
確かに揉めに揉めている地域ではあるが、そこに住む人が危ない訳ではない。
カルスがクルディスタンだと聞いて嬉しくなった。いい街なんだろうな。
「今日のバスはもうない。次は明日の朝だね。」
バス会社のスタッフはそう言った。一日一本しか出てないらしい。まだ12時過ぎだが、もう10時に出発してしまったとのこと。
まだジョージアのバトゥミから40kmくらいしか移動していない。やむなく、この街、ホパに1泊することにした。
安宿を知らんかと聞いたら、その辺にたくさん宿があるから行ってみなよと教えてくれた。
《ホテルイスタンブール》

なんだか目立つ宿を見つけた。値段を聞くとそんなに安くはない。
しかし他の宿をあたってみても、ホテルイスタンブールより安い宿を見つけられなかった。
戻ってきたよ、と伝えると、ニヤリとしている。どこから来たのと聞かれたので、パスポートを差し出しながら日本だよと伝えた。
「君は僕の兄弟だ!」
僕は彼の弟になった。お茶でも飲むかと言うので頂く事にした。
トルコ式の真ん中がくびれたグラス。わざわざお茶屋さんに注文してくれたらしい。店員さんが配達してきてくれた。

「空手やってる?」
空手はやってないと言うと、ああ君はノーマルジャパニーズなんだね、と言われた。
「サムライはまだいるの?」
もういないよ、と答える。
「サムライソードは買えるの?」
買えるよ、よく切れるよ。と答えると目を輝かせていた。どこの国の男も武器が好きだ。
トルコは親日な国らしい。日本人もなんとなくトルコが好きだと思う。実はトルコと日本には深い歴史がある。
1890年、エルトゥールル号に乗った親善使節団が日本に派遣された。明治天皇始め国民に歓迎されたその帰路、台風で船は座礁し、多くの犠牲者を出した。
その際、座礁現場付近の大島島民が不眠不休で救出活動や手当、介護にあたり、日本各地から物資や義援金が集まった。
その後、生存者は日本海軍の船でイスタンブールまで送り届けられた。
それから時は流れ1985年。イラン・イラク戦争。当時のイラク大統領サダム・フセインは、「今から48時間後にイランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」と声明を出した。
イランに住んでいた日本人は大慌てで空港へ向かったが、どの便も満員。日本からの救援機の派遣は安全が確保できないという理由で見送られ、取り残された日本人たちは途方に暮れるしかなかった。
そんな中、トルコから急遽駆けつけた救援機2機で日本人215名全員がイランを脱出することができた。48時間のリミットにあと1時間と迫ったタイミングの出来事だった。
当然、イランにはトルコ人も多く住んでいたが、救援機を日本人に譲り、トルコ人達は陸路で避難した。
なぜトルコの救援機が日本人のために急遽来てくれたのか、日本の政府もマスコミも分からずにいた。
後に駐日トルコ大使は語った。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
受け継がれた歴史が国の絆を深めてくれた。日本の先人と日本人を救ってくれたトルコの方々に感謝します。
トルコの兄とお茶を飲みながら長く話した。日本人だということで、変にいい思いというか特別扱いを受けることが多いのだが、個人的にはあんまり嬉しいもんでもないんだけど、なんだかこのトルコの兄から受ける特別扱いは嫌な気がしなかった。
ああ、本当に日本人を大切に思ってくれてるんだな、という気持ちが伝わって来たような気がしたからだ。
長く話していて忘れていたが、朝飯も昼飯も食べてない。
お腹が減ったが、今がっつり食べると夕飯が食べられないような時間だ。なんか小腹を満たせるようなもんはないかと歩いていた。


道端には小さいテーブルと椅子がでており、そこにおじさん達が座ってお茶を飲みながら何かテーブルゲームをしている。よく分からないけど賭け事なのかな。働きもせず大熱戦だ。
そこを抜けるとケバブ屋さんがあった。ちょうどいいや、とケバブとコーラを注文。
店員さんはニコニコしながら僕に気を遣ってくれる。ここに座って、お金は後で大丈夫だから、と道端のテーブルに案内される。

久しぶりの国境越えだったからだろうか、少し緊張していたからか、ケバブを食べていると身体が妙にリラックスしてきた。
快感物質が脳から湧き出ているかのような幸福感の中、ケバブを食べた。それにしても、さすがトルコ、段違いでケバブが他の国よりうまい。
コーラを飲み干すと黒海へ向かった。もう観ることがないと思っていた黒海。時差の影響で、日没はジョージアのバトゥミより1時間早い。ほんの少ししか移動していないのに変な気分だ。





岩に腰掛けて黒海を眺める。なんで海ってこんなにボーッとしてしまうんだろう。太古の記憶的なやつか?

気がつくと日没が近づいていた。残念ながら今日は少し雲がかかっている。しかし、日没直前、雲の隙間から少しだけ太陽が顔を出した。それで十分だった。


宿で少しくつろいでから夕飯に向かった。食堂のような店に入ると、どうやらおかずを選んで食べる方式の店のようだった。
まだあんまり腹が減ってなかったので、豆のスープとご飯を注文。すると、豆のスープと、豆のスープをかけたご飯が出てきた。それにトマトと生タマネギ、パンは食べ放題らしい。

なぜ豆のスープと豆のスープをかけたご飯が出てきたのかは分からないが、豆のスープをかけたご飯だけでよかった気がする。
豆のスープはおいしいけど、豆しか入っていないし、ご飯にも豆のスープがかかっているので、豆のスープから逃げられなくなっていた。
パンとトマトで口の中の味を変えながら完食。こんなに豆を食べたのは初めてだ。
会計を済ませると、手にアルコール除菌的なものをかけてくれた。これ食前の方がよくない?
ともかく、トルコの旅が始まった。ジョージアはヨーロッパ文化だったが、トルコは今のところアジア文化を感じる。また戻ってきたよ、アジア。

せんまさお

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